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Channel: 随自意でいく
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聖教新聞について思った事

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聖教新聞は励ましの新聞である。
 
大半の紙面を励ましで埋め尽くしている日刊紙は、恐らく世界中探しても聖教新聞以外にはないだろうと思う。
 
最近では時々、学会員じゃない芸能人が登場し、若者を励ますためだけの記事が出る事もある。
 
毎日掲載される体験談では、住んでいる地域と実名と顔写真まで公表した上、その人が「いかなる苦難にも負けなかった人生ドラマ」をありのままに綴っている。
 
体験談を含め、「人間が本来持っている力を知ってもらうため」にも、学会員以外の多くの人たちにも読んでもらいたい記事がたくさんある。
 
広宣流布と言っても、本当の目的は世界恒久平和の実現を目指す事なのだから、聖教新聞を外部の人に読ませる理由は、学会をPRするためという単純な理由ではない。
 
もちろん、学会理解の輪を広げる事は非常に大切な事だが、それ以外に、「幸福に対する意識改革」という大事な役割が聖教新聞にはあると思っている。
 
要は、「心こそ大切」というキーワードをいかに多くの人達に浸透させられるかではないかと思う。
 
「心が豊かであれば、それだけで幸せになれる」という記事を過去に書いた事があるが、まさにそのための新聞が聖教新聞なのだと思う。

 
このような聖教新聞だが、かつては信じられないほど汚い言葉が頻繁に踊っていた時期があった。
日蓮正宗から破門された後の寸鉄や座談会だ。
 
学会員の中には、あの頃の紙面は恥ずかしいと感じている人は今でもいると思う。
 
現実に今でも、あの頃の寸鉄や座談会に書いてあった言葉をアンチにはネタとして使用される事がある。
 
正直、私もやりすぎではないかと思っていた時期があった。

だけど、今は考え方を変えた。
何故なら、あの頃の寸鉄や座談会を読んで、「やりすぎでは?」と感じた私は、宗門への赤誠を貫いた経験を全く持っていなかったからだ。

そんな私が、宗門に尽くし抜いた上、極悪非道な裏切りを受けた人々の気持ちなど、分かるはずがないと気付いたからだ。

池田先生がどれほどの思いで宗門を守り抜いてきたか、また、師匠と同じ思いで宗門へのご供養を続けてきた方々や、正本堂への供養に全財産を投げ打った方々などが、どれほど悔しい思いをしたのかを考えると、想像を絶するものがある。
 
そういった方々の心を救済する意味もあったのではないか?と、今なら思える。
 
薄汚い宗門から完全に決別するため、また、宗門へのご供養を続けてきた方々の執着心の呪縛を解くために、外部や第三者から誤解を受ける事も覚悟の上で、あえてあのような表現を使わざるを得なかったのではないか?と、今ならそう思えるようになった。

 
 
聖教新聞は、今も昔も、ずっと、励ましのための新聞なのだ。
 
 
 
事実、この新聞に人生を救われた人々は、世界中で無数に存在している。
 
 

 

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