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Channel: 随自意でいく
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自戒を込めて

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自分が生活する環境で、色々な問題が起こる。
特に人間関係で悩む。
 
こんな時に学会員は、相手に原因を求めず、自分の宿業として捉え、祈る。
 
一生懸命に相手の良い所を探し、相手を好きになるように自分の一念の変革をはかるように努力する。
 
そうすると、いつしか相手からも好かれ、次第に信頼関係を築けるようになってくる。何より、自分自身が一皮剥けた人間革命を成し遂げる布石ともなる。
 
仏法は道理なので、このプロセスに何一つ無理はないし、不可思議な話でもない。
 
「すべてを信心で捉える」という事を教え込まれている学会員は、すべての行き詰まりを祈りと知恵と誠実な行動で乗り越えてゆく。
 
ところが、これと似た問題が組織内で起こった場合、上記のような信心の基本をあてはめずに考えてしまう風潮があるように感じている。
 
私自身の反省を込めて、組織にいて気付いた事を記事にさせてもらう。
 
同志間というのは、とにかく怨嫉が起きやすい。特に婦人部は、うんざりするほどひどい。
 
どういうわけか、相手が信心をしていない外部の人間であれば、人間関係の不和が起こった時に自分の宿業として捉えられるのだが、相手が同志であった場合、特に自分よりも上位役職の人間との間に起こったトラブルは、自分の宿業とは捉えにくく、相手のせいだと思いこんでしまうようなのだ。
 
不思議な事かもしれないが
 
「仏法では他人のせいという考え方は一切ない」
 
という学会指導に賛同はしていながらも、自分よりも上位役職の人間に対して不信感を感じた時は、悪いのは自分ではなく、相手ということで片付けてしまうのだ。
 
「自分よりも役職が上なんだから、こんな事には気付いて当然」
「先生の指導を読んでいれば、これはできて当然」
 
と、心の中で考えてしまうのだ。
「役職と信心は全く関係ない」と、池田先生が繰り返し指導されているのにも関わらず、(私自身も含めて)自分よりも役職が高い人は、自分よりも境涯が高くないと何だか納得できない気持ちになってしまうのだ。
 
その場合、自分の宿業とは捉えていないのだから、相手の事をそれほど真剣に祈る事はない。
 
仮に、自分がその組織の長になった時、既に会員同士の不協和音が根強く存在していた場合、これは絶対に自分のせいではなく、これを放置してきた先輩幹部の責任じゃないか。と、思い込んでしまう。
 
非常に恥ずかしい話ではあるが、私自身の一念にそういう考え方が確かにあった。
 
私自身が地区員さんから嫌われていたりしたわけではないので、当然私の問題ではないと思っていた。
 
が、
 
「それでいいのか?なんか違うだろ」
 
と、最近気付いた。
 
組織の中の人間関係に問題を感じた時、それは
 
「問題を感じた人の問題」
 
と、捉えてほぼ間違いないのではないかと思う。
 
何故なら、問題を感じた人が唯一、団結の組織を作るための具体的な祈りができ、具体的な知恵を出し、手を打てる人になるからだ。
 
我が地区の婦人部は、確かに自己中な人が多く、とにかく皆、我が強い。
 
誰かが、誰かを嫌ったり煙たがったりしている。
 
個々が我を張ってしまう組織の背景にあるものは、団結をかき乱す魔の存在に違いない。
 
この魔を鋭く見抜き、追い出していく以外に組織を変える手立てはないのだろうと思う。
 
広宣流布の途上で、悪を完全消滅させる事は不可能だが、その組織で悪が蔓延れなくなるほど善の連帯を築く事は決して不可能ではないはずだ。
 
我が地区ではまず、地区婦人部長が、地区の婦人部員数人に対して、どうにも慈悲の心を持てない状態が続いてしまっている。要するに嫌っている。
 
嫌われている地区の婦人部員は、確かに多かれ少なかれ素行に問題はある。私も正直、苦手だ。
 
だが、我が地区の大先輩、多宝会の副本部長ですら、素行に問題のある婦人部員に対しては、陰口を叩くのみで、具体的にどう手を打てば良いのかについて知恵を出した事はない。
 
そして今、私自身が決意している婦人部を要とした地区の団結を図っていく方法とは
 
どんなに問題のある部員さんであっても、慈悲を最大限に出して祈っていく、という当たり前の風潮を根付かせていく戦いだ。
 
人というのは基本的に、自分の良いところを全部分かってくれている人から何らかの諫言をされた場合、素直に聞き入れるものだと思う。
 
地区婦人部長にしても、副本部長にしても、確かに言っている事は間違ってはいない。ただ、一念が間違っているだけなのだ。
 
部員さんの素行について問題提起しているようで、実は自分自身が自高蔑人の魔に犯されていることに気付いていないのだ。
 
まずは、「良いとこ探し」を提案しようと思っている。
 
「自分の良いところをきちんと理解してくれている」
 
それを浸透させる事で、素行に問題のある婦人部員は必ず改心してくれると信じきっていこう。
 
逆に、そういう人が傍にいるのに、小我から抜け出せずに自己中なままでいる人は、心に必ず大きな一凶を抱えているに違いない。
 
「良いところをきちんと理解している」幹部であれば、相手の一凶に対しては鋭く切り込んでも全く問題はない。
何故ならそれは、100%慈悲の一念から発した行動になるからだ。
 
それでも変わらなかったり、怨嫉して組織から離れるような人間であれば、自分から落ちて行くだろう。組織にも全く迷惑をかけなくなる。その上、新たな人材が育つか、組織が新しく活性化される事は間違いないと信じる。
 
要するに私は、まず自分自身の胸中に、そして、地区の主要活動家全員の胸中に、人間革命12巻の以下のくだりを深く根付かせたいと願っているのだ。
 
 
後継の章
「伸一、仏法者というのは、騙されても、騙されても、最後まで相手を信じ、つつみながら、再起と更生を願って、手をつくしていく以外にないのだよ」
 
 
長期間の粘りが必要な戦いとなるだろうが、「やるしかない」と思っている。
 
まず、自分が変わろう。
 
そして、じっくりと祈り、準備しよう。
 
 
 
 
 

無限の可能性について考え直す

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ガンジーは言った。
『歴史上、いまだ起こったことがないから不可能だというのは、人間の尊厳に対する不信の表れである』

祈りながら、かなり無意識だが「自分はここまでならできるが、これ以上は無理」と決めている事が多い。
無限の可能性を心のどこかで疑っている。

この考え自体が謗法かもしれない。

無限だと言いながら、自分の限界を勝手に決めているのだから。

人間的にも世法的にも、まだまだ成長できる。

もちろん仏法は道理であるから、ここから想像以上に成功・成長しようと思ったら、想像以上の苦労も同時についてまわる事になる。

要は、そこまでの苦労をも悠々と乗り越えている自分を信じられるかどうかなのだと思う。
 
まずは、祈り方を変える所から始めてみよう。

少年少女部担当、別名「ゲームのおじさん」w

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室内用のストラックアウトを自作してみました♪
 
イメージ 1
 
スポンジでできたボールを使用します。
当たるとパネルが後ろに倒れる仕組みで、数字と数字の間を抜けると、2枚抜きも可能です。
 
構想約3ヶ月
材料費約2000円
総製作時間 のべ5時間
 
少年少女部員会の企画運営に携わるようになってから、私はもっぱらゲーム担当で、昨年は新聞紙で作った輪投げ、ダンボールで作ったゴルフゲームなど、色々と製作しましたが、楽しみながらやっているせいか、調子に乗ってどんどんクオリティが高くなっていきました(笑)。
 
この作品に至っては、周囲に呆れられるほど感心されたものです(^^;
 
不思議なもので、自分に子供ができてからは、子供との接し方が分かるようになった事もあり、独身時代とは比べ物にならないほど子供好きになりました。
 
少年少女部の子供たちは可愛くて仕方ありません。
 
未来を担う子供たちに、我々大人が出来ることは何だろう?と考えた時、一回一回、一人一人と真剣に向き合う以外にないという結論に達しました。
やっぱり師匠がやってきた事を模範とする以外にないという結論です。
 
少年部員会の目的は、信心を打ち込むというよりは、学会のあたたかさや創価家族のぬくもりを伝え、生命に刻んでいってもらう事では?
その事を肝に銘じ、これからも、子供たちに喜んでもらえるよう、どんどん知恵を出して行こうと思います。
 
 

実写版『花の三丁目地区』

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花の三丁目地区実写版が製作されるらしい。
 
13巻以降の電子書籍化も決定したようだし。
 
とっても楽しみです♪
 
 
ところで最近の青年部は、「花の三丁目地区」を読んでいるのだろうか?
 
入会間もない頃、この漫画との出会いで創価学会の哲学の深さを感じる事ができた。
 
青年を育て、青年を鍛えるという基本的コンセプトは今も昔も全く変わっていない。
 
また、この漫画は人間革命や新・人間革命を手に取る初門にもなる可能性もある。
 
一人でも多くの青年部に読んで、思索してもらいたい作品です。
 
 

しょこたんがいじめ問題について語る

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中川翔子がいじめ問題についてコメント……「学校が世界のすべてではないのに」

 
タレントの中川翔子がいじめ問題についてブログで言及。ネット上で話題となっている。

 中川は17日、お馴染みのハイテンションな文章を封印し、メディアで度々取り上げられている大津市の中学生自殺問題ついてコメント。「生徒の声を聞かずにいじめはなかっただの遊びだっただの、恥を知ってほしい」「加害児童たちの、遊びのつもりだった、そんなことがまかりとおるなら暴行恐喝など世の中の犯罪も遊びですまされることになる」などと、学校やいじめを行っていたとされる生徒を痛烈に批判し、「命が失われてからじゃ遅すぎる。教師が、学校が、まともな対処をしないと生徒にとっては学校が世界のすべてになってしまうのだから。学校が世界のすべてではないのに」と、いじめに対する適切な対応に願いを込めた。

 最後は「死ぬという選択だけはしないでほしい。絶対に、生きる価値がいっぱいいっぱい未来にはある。いじめをする下らないやつの人生よりよっぽど幸せな未来が待っているから」といじめに苦しんでいる人にメッセージをおくり、「隠蔽を許してはいけない。ありのままの真実を。そして命を追い詰めたことの重さを」との重い言葉でブログを結んでいる。
 
 
 
全くの正論です。
しかし野田総理のコメントはまるで他人事のようでした。情けない・・・。
 
いじめは、いじめる側が100%悪い!
 
とにかくこの常識を全地域、全家庭、全教育現場で徹底して教え込む以外に問題解決の道はないとい思う。
 
今だに「いじめられる側にもそれなりの原因があるんじゃない?」と本気で思っている人がいたら、こう叫びたい。
 
そういうあんたの心が一番の元凶だよ!!
 
それにしても、しょこたんは素晴らしい。悪に対してきちんと怒りの声を上げられる人は、信用できる。ファンになりそうです(笑)。

人の噂のいい加減さと、いい加減な噂を撒き散らす人間の責任感覚のなさ

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最近、会社の事務員さんがこんな事を言った。
「東尾理子の子供がダウン症なんだってね!? そんでね、うちの妹が言ってたんだけど、同じダウン症の子供を持っていてそれを隠していた松野明美が激怒したらしいよ」
状況を何も知らなかった私は、東尾理子さんの子供はダウン症。
それは隠すべき恥ずかしい事であり、公表してしまった事を松野明美さんが激怒したものだと理解した。
この噂を鵜呑みにすると、ダウン症の人に差別感を持っているのは松野明美さんであり、向き合おうとしているのは東尾理子さんであるという事になる。
 
ところが、よく調べてみると、こういう事だった。

以下、J-CASTニュースからそのまま抜粋
 
 

東尾理子「第1子ダウン症の可能性」公表  激励コメント殺到、一方で「怒りこみ上げた」と松野明美

   プロゴルファー、東尾理子さんがブログで、出産予定の第1子にダウン症の可能性があると書いたことに、元マラソンランナーの松野明美さんが物申した。ブログ上での公表に、ダウン症の子を持つ母親として納得できない様子だ。
   松野さんは、妊娠中に赤ちゃんがダウン症であるかを調べる検査について否定的なようだが、デリケートな問題であり人によって考え方はさまざまだ。

82分の1の確率で赤ちゃんがダウン症の可能性

   東尾さんは2012年6月3日のブログで、「クアトロテスト」を受けた結果、82分の1の確率で赤ちゃんがダウン症の可能性があると言われたと明かした。クアトロテストとは、母体から血液を採取して検査するもので、赤ちゃんがダウン症や開放性神経管奇形になる確率を調べられる。必ずそうなると分かる検査ではないので、確実に知るには羊水検査を受ける必要が出てくる。東尾さんの場合は、羊水検査は受けないとブログでつづっている。
   ブログへのコメント数は6月8日時点で4700件を超え、東尾さんを激励する内容が並ぶ。妊娠中と思われる女性からの投稿も多く、「私も羊水検査しません」「なにがあってもこの子を生んで大切に育てたいと思っています」と、東尾さんに共感を寄せている。
   しかし、東尾さんがブログで公表したという事実に異を唱えた人物が現れた。松野明美さんが「女性セブン」の取材に「公表するようなものではないと、私は思いました」とこたえたのだ。松野さんの二男はダウン症。メディアでの「明るく元気」なイメージを守ろうとするあまり、当初はその事実を隠そうとしていたという。「発育が遅い」といらだつこともしばしばだったと、自身のウェブサイトで認めている。それでも徐々に成長する二男を見るうちに考えを改め、今は同じ境遇の人を励まそうと積極的に二男の話を表に出している。
   では、東尾さんの行動の何が不満だったのか。松野さんは「いろんな意見があると思う」と前置きしたうえで、生まれる前にダウン症の「可能性がある」とわざわざ言うことではない、という主張のようだ。自身がダウン症の子を育てているだけに、「怒りがこみあげてきました」と少々手厳しい。
   インターネット上では、松野さんに賛同する意見も見られた。実際に生まれたらダウン症でなかった場合、東尾さんには「よかったですね」との祝福が寄せられるだろう、そうなれば結果的にダウン症の人やその親を傷つけることになりはしないか、との指摘だ。そのうえで、「82分の1の確率」をあえて明らかにする意図が分からないという。
 
 
 
要するに、82分の1という低確率でダウン症の子が生まれてくると公表した事を松野さんは怒ったという事なのだ。
 
82分の1であれば、むしろダウン症じゃない可能性の方が圧倒的に高いわけで
 
>実際に生まれたらダウン症でなかった場合、東尾さんには「よかったですね」との祝福が寄せられるだろう、そうなれば結果的にダウン症の人やその親を傷つけることになりはしないか
 
ここが一番のポイントだ。
 
これなら、ダウン症の子供を抱えながら真剣に向き合っている松野さんの怒りが至極当然であると理解できる。
 
 
さて、この記事を書いた理由は、東尾理子さんや松野明美さんがどうのと言うためではない。
 
この噂をそのまま私に伝えた事務員さんの事だ。
 
彼女は、「自分の子がダウン症だなんて、東尾理子は相当ショックだっただろうね~」と、事もなげに言ってのけた。
これはダウン症の人に対する差別発言だ。
 
更に、「調べたらその情報が間違っていた」と指摘してあげたのだが、それに対しては「あ、そうなの?ふ~ん」と、あっけらかん。
いい加減な情報を鵜呑みにして垂れ流した事実については、一切の反省も悔恨の表情も見せなかった。
 
単純にこの事務員さんが「悪い奴だ」と言いたいわけではなく、この彼女の態度がそのまま日本人が抱える一凶ではないかと強く印象に残ったのだ。
 
日本人の多くは、デマや思い違いを垂れ流しても、何ら恥とも思わないし、責任も感じないという事実をはっきりと浮き彫りにする出来事だと思ったのだ。
 
「デマを作ったのは私じゃない」「悪意があったわけではない」
 
であれば、何も心が痛まない。
 
この世の中で、風評やデマによってどれだけ無数の人権が踏み躙られたか、考えれば考えるほど、その根本原因は情報を扱う人間の問題意識の希薄さなのだと理解した。
 
創価学会は、自ら嘘・デマの集中攻撃を浴びる事により、世の中すべての嘘やデマ・・・またそれに傷つけられた人々の心の痛みを理解しながら、永久に末法の五濁悪世と戦っていかなければならない。
 
広宣流布は絶対に必要だ。
 
最後に一言。
 
ダウン症は、病気ではなく、個性です。
 
 
 

人気作家の深イイ話を学会活動と重ねてみた。

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時々、何気なくつけているテレビやラジオから、心に深く響く言葉と出合うことがある。
 
こういう時はちょっと得した気分になる。
 
何度も苦労を乗り越えている人の言葉ほど、経験に裏打ちされた人生哲学が見えて楽しい。
 
NHKテレビ昼、中井貴一さんがナレーションを努めている「サラメシ」という番組で、「八日目の蝉」などで有名な、人気作家の角田光代さんが登場した。
 
角田さんの趣味は料理。
 
作家デビューした当初はほとんど料理の経験はなかったそうだが、ある時、全く小説が書けなくなった時期があり、その頃から気晴らしに料理をするようになったそうだ。
 
そして料理をするようになってから、小説も順調に書けるようになったという。
 
角田さんは、こう言った。
 
「小説というのは、『こういうものを書こう』と思っても、なかなか思った通りにはいかないものですが、料理なら、例えば『餃子を作ろう』と思い、決まった手順で作業をすれば必ず餃子ができる。そういう意味で、私にとって料理は物凄く気晴らしになっていると思います。」(趣意)
 
とても深い言葉だと思った。
 
「こうしようと思っても、その通りにはならない」「だったら、必ずその通りになる行動をすればよい」
 
これ、学会活動が全部そうだ(笑)。
 
仏法対話を決意して、相手の反応をあれこれ想像しても、絶対にその通りの反応はしてくれない。
 
新聞啓蒙を決意して対話しても、予想外の断り文句がほとんど。
 
メンバーの激励を決意して会いに行っても、予想通りに事は運ばない。
 
広宣流布の戦いには必ず相手がいるので、予想通りの展開になる事はほとんどない。
 
そのため、勝利点を「結果」に置くと負けるが、「自分の行動」を勝利点にすれば、決意さえ確かであれば必ず勝てる。
 
言うまでもなく、「祈り」と「行動」の2つだ。
 
「祈り」とは、納得するまで相手の幸せを真剣に祈れたかであり、惰性で2時間3時間唱題しても勝った事にはならない。
 
「行動」とは、不軽菩薩のごとく誠実な対話に終始できたかどうかを勝利点と決めておく。
 
この「自分の行動の勝利」を重ねれば、必ず結果もついてくる。
 
何故か。
 
「折伏をしたい」という執念を持ち、「自分の勝利」を繰り返す。
 
自分は勝っているわけだから、自信がつく。
 
そうすると、やればやるほど元気になる。
 
やればやるほど生命力が上がる。
 
生命力が上がっているから、いつしか相手の仏界も引き出せるようになる。
 
池田先生が「私は結果しか信じない」と言われるのは、そういう方程式があるからだと思う。
 
何も恐くない。自分が勝てばいいんだから。

意味をまつのか、意味を作るのか

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 学会員さんが好んで使う言葉の中に、意図しない出来事が起こったり、思わぬ災難に見舞われた時に使う「これって意味あるよ!」というものがあるが、これの使い方について、どうしても気になるようになってきたので、記事にします。
 
そもそも、世の中のすべての出来事には「意味がある」のであって、その意味を自分の力で最善のものに変えていくのが信仰の力なのだ。
 
何となく、勘違いして使っている人がいるような気がしたのは、自分の目の前に起こった事のすべてが、御本尊様の御計らいによる最善の出来事なのだと思っている人が意外と多いような気がしたからだ。
 
実はそうではなく、どんな事が起こってもそれを最善に変える力が人間には備わっているという事を知らなければいけないのだと思う。
 
確かに、仏法では法華経の行者を守護すると誓った諸天善神が無数に存在している。
そして学会員は、それが諸天善神のおかげだと気付いている事も、気付いてない事も含めると、数限りない諸天の恩恵を受けているのも事実だ。
 
だからと言って、信心を頑張っている人は、絶対に病気や事故では死なないという事ではない。
 
 
時々、聖教新聞や大白蓮華で、信心を頑張っていたはずの子供が突然亡くなり、絶望に打ちひしがれた母親が負けずに立ち上がり、見事な実証を示したという体験談が載る事がある。
 
私は、こういう体験談が本当に好きで、それを積極的に掲載する聖教新聞社の姿勢も大好きだ。
 
「守られた」とか「生活が好転した」という体験ももちろん大事だが、その根底にあるものは、「苦難に(自分が)負けなかった」「絶望の淵から(自分で)立ち上がった」という究極の人生ドラマの体験を聖教は伝えようとしているのだ。要するに一番大事なところが、「人間はどんな劣悪な環境にいても、心だけは絶対に勝てる」という部分なのだ。
 
 
そう考えると信心の究極は開目抄で大聖人が宣言された――
「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(232P)という一文だ。
 
大聖人自ら
「諸天善神なんかいらね~!それでも俺はどんな難があっても負けずに正法を弘めるよ!」と宣言されているわけだから、これほど究極完全体の生命はないだろうと思う。
 
とはいえ、三世の生命観で見れば、必ず守られてしまうのが、仏法を実践する人のお約束なのだが、守られる事を期待しない人生の方がはるかに強く、楽しいものだともう一度確認しておきたいと思った。
 
 
目の前に起こったことの意味を「座して気付くのを待つ」のか、「積極的に意味を作っていく」のか、この両者の違いは、途方もなく大きい。

fdfsdfsdderさんへ

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fdfsdfsdderさん、返事を書いていたら長くなりましたので、コメント欄では限界があるため、記事にします。
 
友人が本当に仏法対話をする事だけが目的であなたに近づいたのだとしたら、その友人にも非はあると思います。
そうではなく、仲良くなれたので、自分が誇りを持って信仰している信心の話をしたくなって話したのだとしたら、あなたが離れて行った事で友人も傷ついているかもしれないですね。
どちらが真実かは本人にしか分かりませんが、少なくとも学会では「仏法は人の振る舞い」であり、「誠実に徹する事が大事」であると教えられています。
そして現実に地域・社会で学会指導を胸に奮闘し、多くの信頼を勝ち取った学会員が世界中にいます。
 
そしてその方々は、信心がなければ、学会指導がなければ決して乗り越えられなかった困難や逆風を体験したからこそ、信仰の素晴らしさを確信して自信を持って語っているのだと思います。
 
それが、TAKEDAさんも言われたような実名と本人の全身写真付で聖教新聞に連日掲載される体験談なのですが、私が知る限り新聞に載る体験談はごく一部です。
 
地元にいるだけで、己心と向き合いながら挑戦し、殻を破った新しい自分史を飾っているたくさんの同志を私は知っています。
「学会の信仰が一番」という話は私が入会する時に確かにそう教わりました。「はあ?ほんとかよ?」と、その時は半信半疑でしたが、25年が過ぎた現在、「本当だった」と実感しています。それは信仰を続けてきたからこそ実感できる本音であり、言葉で説明できるものではありません。
 
また、最近行われた地方選挙では、地元の公明党公認候補者が過去最高の得票数を記録しました。あなたが言われたように社会での強い立場を利用した聖教新聞の啓蒙というのはなかなか否定しきれない部分もありますが、地域・社会で多くの学会員が信頼を得ているのかどうか、隠しきれない結果として現れてしまうのが選挙なのではないかと思います。
選挙だけは、仮に社会で強い立場があったとしても、その人が嫌われていれば投票をお願いして「分かりました」と答えてもその人は絶対に投票はしてくれません。
それが過去最高の得票数を記録したということは、地域に根を張って戦って信頼を勝ち取った多くの創価学会員の勝利の姿に他なりません。
 
自殺云々に対して「証拠を出せ」と言った理由は、あたかも学会の信仰が原因で自殺したかのような印象を与えるコメントをあなたがされたからです。そこに非常な悪意を感じたのでそう言いました。
 
そうするとあなたは「夢中になると周りに迷惑をかける事がある」と論点をすり替えました。
 
でも夢中になる事それ自体が周りに迷惑をかけるとは私にはどうしても思えません。
学会員は確かに学会活動に夢中になっていると思いますが、それは勇気を出して自分と価値観が違う人たちと積極的に関わっていく事であり、どこまでも自分と向き合い自分を高める努力を続けていく事でもあると思います。
 
更に言うと、あなたはこのブログをコメントされたこの記事以外の記事をどれだけ読まれたでしょうか?
多くの記事を読めば、このブログ自体がほぼ学会員向けに特化した形で書かれている記事ばかりであることに気付くはずです。
 
つまり同志に向けて私は記事を書いているのです。あなたがコメントした記事だってそうです。
 
例えるなら、登山者が別の登山者に向けて書かれているコミュニティのようなものなのです。
 
要するにあなたのコメントは、富士山を登頂した人が他の登山仲間に「富士山の登頂は史上最高に気持ちいいよね!」と訴えかけているものに対して富士を目指すどころか山登りすらしようとも思った事がない人が「それはあなたの主観にすぎないでしょう?」と意味不明の難癖をつけているのに近いものがあります。
 
観念の遊戯がお好きなようですが、私は実践者なので、あなたの言葉は何一つ心に響きませんでした。恐らく、このブログを閲覧されているほとんどの方が同じ気持ちだと思いますよ。
 
「学会は間違ってる?はあ?俺すっげえ幸せになったし、いっぱい人に感謝されたし、反対してた母親も今は味方だしwwやったことのないあんたに何が分かんだよ!」と思っていたので、正直、あなたのコメントは最初からかなりウザかったです。他人の家に土足で上がって勝手に持論を展開する人にしか見えませんでした。
 
私は創価学会員になったおかげで地獄の日々から立ち上がり、一生かけても返せないと思うくらい多くの恩を学会からいただきました。
私にとってはそれが創価学会なのです。
 
それに対してあなたは、自分がほんの少し傷ついたぐらいで人が一番大切にしている信仰をめちゃめちゃに踏みにじる・・・少なくとも私はあなたには一切迷惑をかけていないのにも関わらず、意味の分からない持論で見ず知らずの他人のブログコメント欄を好き勝手に荒らす。
あなたこそ、人の心が分からない人ですね!
 
私の言い分はこれで以上です。時間の無駄なので、今後一切あなたは私のブログには来ないで下さい。一人で観念の遊戯を楽しんでいれば良いでしょう。
 
 もしコメントをされた場合は即削除します。
あなたがされるコメントは悪意の印象操作を主軸とした週刊誌と同じレベルの駄文以外の何物でもないと判断できたからです。
 
11/20追記
 
記事の冒頭で「友人にも非が・・・」と書きましたが、違う気がしてきました。
 
あなたの文章からは屁理屈好きで卑怯な性格がにじみ出ていますので、職場で孤立していた可能性もある。
見るに見かねた職場の同僚があなたを救いたくて仏法の話をしたのかもしれない。
それならば友人は悪くありません。
そして、あなたを救えるのは私ではない。あなた自身が素直に自分を見つめる努力をするしかない。
自分の悪いところを指摘してくれる人に対して逆恨みしているようでは、いつまでも幸せにはなれませんよ。
 
ではでは。
 
追記2
これほど言っててもやはり意味不明で悔しまみれのコメントをしてきましたので、約束通り削除しました。
どこまで非礼で自己中でKYなのでしょうか?
普通、友達に恵まれている人は仲良くなった人が宗教の話をしたぐらいでは傷ついたりしません。創価学会に逆恨みするのは筋違いです。
さらに見ず知らずの他人の学会員のブログに来て愚痴をぶちまけるなどもってのほかですね。
当初、私はあなたと対話する気持ちがありました。
しかし、あきらかに学会のイメージダウンを狙った、信仰とは全く関係のない自殺話を持ち込んだ上、自ら「創価学会の信仰自体が関係しているわけではない」と認めながら別の言いがかりをつけるなど、あきらかに卑怯で卑劣な人格を露呈していました。こういう人は何をどんなに説明したところで人のアラを探して非難するだけですので、全く時間の無駄でいたずらに生命力を消耗するだけだと判断しました。
対話する気はさらさらなく、始めから学会誹謗ありきで、TAKEDAさんといつまでも平行線だったのは何一つ認める気がなかったからです。
ご自分が人の話を聞かない都合の良いところだけを取り上げて誹謗する曲がった人格であることに一日も早く気づいていただく事を祈ります。
 
 
 
 
 
 

ゴールはない

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自分の人格・境涯は永遠に完成しない。
それを自覚している人が永遠に成長できる。

「広宣流布とは到達点ではなく流れそのもの」

この創価学会の公式見解を自分という小宇宙に当てはめて向き合う事ができる人が一番幸せな人なんだ。

ご報告

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私は今回の選挙で生まれて初めて公明党以外の政党に投票しました。
信心には1ミリも疑念は生まれていません。
ただ、戸田先生の「青年よ、心して政治を監視せよ」のご遺言に従い、平和を守るための選択をしたにすぎません。

ほとんどの学会員がもうずっと以前から投票先を決める際に自分の頭で考える習慣を捨ててしまっており、ただ公明党に依存する事が正義であると思考を止めてきた事がこれほど恐ろしい事態を生み出してしまうとは、今回の選挙を見るまで思ってもいませんでした。

公明党が何よりも優先したのが自民党との連立を維持すること。
そのためなら平和の党としてのプライドも信念もあっさり捨ててしまう愚かさ。

公明党の議員に問いたい。
初代牧口常三郎先生は、宗門から神札を受けてみてはどうか?と言われた時に妥協案や折衷案を出して逃げたか?

御書
「仏法と申すは道理なり道理と申すは主にかつものなり」

池田先生
「平和とは武力バランスではない」

権力を監視するために生まれた政党は今、権力に破れ、権力に取り込まれた。

もはや今度こそ民衆が立ち上がるしかない。

打ち出しを存分に使う

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創価学会には、「打ち出し」というものがある。
 
これは、学会理解の輪を広げるための、外に打って出る戦いのタマを各県・各地域で最高幹部が決めてくれる物のことで、学会本部から打ち出しがある事は滅多にない。
 
例えば私の地域では、2月末から3月頭にかけては展示会。3月末からは、防災署名の活動が“打ち出された”
 
打ち出しは、各地域の最高幹部が協議して決める。地域の学会員が、いかにすれば下種拡大の戦いがしやすくなるかを最大限に考え、その道しるべを示し、同じ目標に向う団結のきっかけを与えてくれることこそが、打ち出しが存在する理由だ。
 
もちろん、創価学会は折伏をするための団体なので、すべての活動は広宣流布に直結していなければならない。
 
とはいえ、今は昔と違い、誰彼構わず仏法対話をするという時代ではない。
 
今は、仏法対話以前に「私は創価学会員」宣言をするチャンスすら、なかなか訪れない事が多い。
 
そう考えると、打ち出しというのは実にありがたいと常々思う。
 
展示会へのお誘いも、防災署名も、誰彼構わず声をかけたとしても、何一つ不自然さがないし、、無理もない活動といえる。

つまり、誰彼構わず学会宣言できる、またとないチャンスとなる。
 
何のタマもなく、「実は俺、創価学会員なんだ」と打ち明けられたら、ほとんどの人は「俺を勧誘するつもりか?」と警戒するだろう(笑)。
 
だが意外にも、こういった下種拡大の戦いが弘教に直結したケースは珍しくない。
 
生命力を満タンにし、真剣に、丁寧に相手の心に訴える対話をする事で、相手は心を開き、深刻な悩みを持っていた事を打ち明けてくれる事もある。
そして本気で宿命転換を目指し、信心を始める決意をしたという話は、よく耳にする。
 
そう考えると、打ち出しというのは、紛れもなく広宣流布に直結している。あくまでも自分が使命を果たすため、各々が広宣流布を目指して存分に力を発揮するためにあるものだという事がよくわかる。
 
その一念の違いで、「やらされ感」が払拭され、「自発能動」の歓喜の戦いへと突き進む事ができるようになる。
そうなるためには、とにかく祈る事だ。題目を上げ抜く事だ。
 
一念が変われば、打ち出しが本当にありがたいものであった事に気付く。
 
残念ながら、戦いを放棄した内部アンチの曇った目には、「打ち出し」というものが、上層部が学会員を手駒のように動かすための手段に見えるようだ。
 
そういう面からも、内部アンチとか脱会者というのは、実にみっともない人種だと思う。
何でもかんでも他人のせいにし、歪んだ自分の生命にも気付かず、戦わない事をただただ自分の外に理由を置いて愚癡を言い、クダを巻く。
 
過去、どんな功績があったとしても、そうなった時点で敗北の人生といえまいか。
ネット上でクダを巻く内部アンチのクズには、一日も早く消えて欲しいと願う今日この頃だ。
 

 

聖教新聞について思った事

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聖教新聞は励ましの新聞である。
 
大半の紙面を励ましで埋め尽くしている日刊紙は、恐らく世界中探しても聖教新聞以外にはないだろうと思う。
 
最近では時々、学会員じゃない芸能人が登場し、若者を励ますためだけの記事が出る事もある。
 
毎日掲載される体験談では、住んでいる地域と実名と顔写真まで公表した上、その人が「いかなる苦難にも負けなかった人生ドラマ」をありのままに綴っている。
 
体験談を含め、「人間が本来持っている力を知ってもらうため」にも、学会員以外の多くの人たちにも読んでもらいたい記事がたくさんある。
 
広宣流布と言っても、本当の目的は世界恒久平和の実現を目指す事なのだから、聖教新聞を外部の人に読ませる理由は、学会をPRするためという単純な理由ではない。
 
もちろん、学会理解の輪を広げる事は非常に大切な事だが、それ以外に、「幸福に対する意識改革」という大事な役割が聖教新聞にはあると思っている。
 
要は、「心こそ大切」というキーワードをいかに多くの人達に浸透させられるかではないかと思う。
 
「心が豊かであれば、それだけで幸せになれる」という記事を過去に書いた事があるが、まさにそのための新聞が聖教新聞なのだと思う。

 
このような聖教新聞だが、かつては信じられないほど汚い言葉が頻繁に踊っていた時期があった。
日蓮正宗から破門された後の寸鉄や座談会だ。
 
学会員の中には、あの頃の紙面は恥ずかしいと感じている人は今でもいると思う。
 
現実に今でも、あの頃の寸鉄や座談会に書いてあった言葉をアンチにはネタとして使用される事がある。
 
正直、私もやりすぎではないかと思っていた時期があった。

だけど、今は考え方を変えた。
何故なら、あの頃の寸鉄や座談会を読んで、「やりすぎでは?」と感じた私は、宗門への赤誠を貫いた経験を全く持っていなかったからだ。

そんな私が、宗門に尽くし抜いた上、極悪非道な裏切りを受けた人々の気持ちなど、分かるはずがないと気付いたからだ。

池田先生がどれほどの思いで宗門を守り抜いてきたか、また、師匠と同じ思いで宗門へのご供養を続けてきた方々や、正本堂への供養に全財産を投げ打った方々などが、どれほど悔しい思いをしたのかを考えると、想像を絶するものがある。
 
そういった方々の心を救済する意味もあったのではないか?と、今なら思える。
 
薄汚い宗門から完全に決別するため、また、宗門へのご供養を続けてきた方々の執着心の呪縛を解くために、外部や第三者から誤解を受ける事も覚悟の上で、あえてあのような表現を使わざるを得なかったのではないか?と、今ならそう思えるようになった。

 
 
聖教新聞は、今も昔も、ずっと、励ましのための新聞なのだ。
 
 
 
事実、この新聞に人生を救われた人々は、世界中で無数に存在している。
 
 

 

煩悩と自然現象

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自然現象とか煩悩とかは、人間が生きて行く上では絶対に必要なものでありながら、多すぎたり強すぎたりすると困るものでもある。
 
世の中って不思議だ。
 
太陽は、照りすぎると旱魃や熱射病を招くし、
風は、強すぎると建物を崩壊するほどの威力を発するし、
水は、多すぎると洪水や不作などの水害をもたらす。
 
地球上の生命に絶対不可欠なものであっても、度を過ぎると生命を脅かす存在にもなる。
 
すべての自然現象は、生命尊厳の慈悲であり、互いに調和を保ちながら存在していると、過去に学んだ事がある。
 
この調和が崩れた現象が自然災害を生み出している。
 
煩悩もそう。
 
小乗経では、すべての煩悩を絶つことが成仏だと説くが、それを一切衆生にさせる事は、そのまま人類の滅亡を意味してしまうわけだから、煩悩は邪魔に見えて必要なものでもある。

煩悩は人間が生きていく上で絶対に必要なものだと言っても、「ほどほど」に留めておかなければ不幸の元になる。
 
食べ過ぎると健康を害し、
寝すぎると体調を悪くし、
物欲が過ぎると常に満たされない心が苦しみを生み、
性欲が過ぎるとおかしな性犯罪の元になったりする。
 
煩悩は、調和が乱れると三悪道を生み出し、不幸への道となる。

そう考えると、世の中のすべては、「ほどほど」にしておく事が良いということなのだろうか?
 
いや、そうじゃないものもある。
 
出せば出すほど、強ければ強いほど良い結果をもたらすものもある。

自分を高めるための飽くなき向上心
真実の人生を常に探求し続ける求道心
利他の心から生じる激励
心ゆくまで唱題
新しい事に挑戦する勇気

おおっ! よく考えたら、上記はすべて学会活動に含まれているじゃないか!
 
何だか凄いなあ、学会員でいるってのは。
 
と、ちょっと歓喜しました(笑)。
 
ここで思い出したのが、「池田名誉会長が語る師匠・戸田城聖先生」という本の254ページに書いてあったこの一節。
 
『▼信心は命をかけても悔いがない。
 
わたしは、「何故、不惜身命で信心をしなければならないのでしょう」と質問した。戸田先生は、こうおっしゃった。「この地球上で、軍人は人を殺しあう。経済は弱肉強食の世界で、人を幸福にするとは限らない。医者や弁護士、役人は本来は人を救う立場だが、反対に人を見下し、利用している輩も多い。その他、政治、科学、教育、宗教――とにかく人間の業というか、社会は複雑で、すべてが矛盾だらけである。どこにも万人の幸福への根本的な道はない。そのなかで、日蓮大聖人の仏法だけは、人間の根本的な宿命転換の方途を示されている。常楽我浄と、永遠の所願満足への軌道を教えてくださっている。これ以上の究極の人生の道はない。だから信心だけは命をかけてやって悔いがないのだ」と。私は納得した。納得したゆえに、身を惜しまず私は進んだ。それが青年である」――第一回アメリカ青年研修会 一九九一・一〇・一―― 』

確かに、いまだかつて
「唱題しすぎて体調を崩した」とか「友を激励しすぎて人間不信になった」とか「教学を学びすぎて鬱になった」とかいった経験はただの一度もないし、聞いた事もない(笑)。
 
 
私は今日も、自分の心を「師弟」という安全地帯に置いて、前に進み続けようと決意した。
 
 

組織から離れるな!

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【我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし】
開目抄 5月度座談会御書
 
「学会から離れるな!」
「組織から離れるな!」
「御本尊から離れるな!」
 
池田先生は、本当によくこの指導を繰り返される。

地元で発心して10年が過ぎ、青蝿が駿馬の尾にしがみつくが如く、学会組織につき続けてきた今、何故先生がこの指導を繰り返されているのかを、少し真剣に考えてみることにした。
 
脱会者とか反逆者とか、活動から長らく遠ざかっている人など、様々な人を見てきて、また、自分自身が何年も活動から遠ざかっていた経験を振り返ってみて、ようやくこの指導の深さの一端が理解できたような気がする。

組織に着いて信心を続けていると、時には組織のあり方に不満を感じたり、幹部の気配りのなさに辟易としたり、常に多くのジレンマと隣り合わせとなる。
 
そんな時、自分の一念が常に「一人立つ精神」であれば、組織への不満は「自分が組織を変える」という誓願になり、幹部への不満は、「自分が弟子の手本を示す」という誓願になる。
 
多くの退転者、多くの内部アンチ、多くの活動休眠者を見ていると、面白いように共通している生命の傾向性があった。
 
「いざという時には他人のせいにする」
「不満は言うが、自分が弟子の手本は見せない」
 
という、外道根性である。
 
こうなると、もはや仏法者ですらない。
 
学会活動をしない理由を外に向けている時点で、それは仏法とはいえない。

不信や不満や疑念は組織で活動している限り、必ずついてまわる。だけど、不満を起こしてはいけないとも、疑念を持ってはいけないとも大聖人は言っていないし、学会指導にもそんなものはない。

大事なのは、そうなった時にどう自分と向きあうかなのだ。
 
「あいつが悪い」
「あの幹部が悪い」
「だから俺は活動しない」
 
実に惨めだ。最後に不幸になる人間の典型だ。
 
ところが
 
「組織から離れない」
 
この一点を絶対に忘れないでいると、幹部への不満、組織への不満が生まれ、活動意欲がなくなってしまった時に
 
「原点に戻って祈る」
 
という選択肢しかないという事に気付かせてもらえる。
 
そして不満の心を全力で御本尊にぶつけ、真剣に祈っていくと、知らず知らずのうちに生命が浄化され、境涯が上がる。
 
苦しくて苦しくてたまらない時に、「もうこれしかない」という本気の一念で唱題を続けると、知恵がわく。また、そんな時に読んだ先生の指導は、必ず自分の生命の奥深くに突き刺さる。自分が求めていた答えを必ず見つけることができる。
 
「組織から離れない」
 
という事は、どんなに苦しくても、辛くても、最後に頼れるのはご本尊様であり、御書であり、学会指導なのだと嫌でも気付く回数が増えるという事なのだ。
 
そして、ご本尊に題目をあげると、必ずすべてを乗り越えられ、悩みや苦しみの正体は、御書や学会指導に必ず答えがある事に気付けるのだ。
 
私はそれを繰り返したおかげで、ありがたくも生命を磨かせてもらった。
 
10年前と今では、まるっきり考え方が変わり、想像を絶するほど成長している自分に気付かせてもらった。
 
更に10年先、また学会創立100周年の2030年、はたして自分は、どれだけ腹の据わった信仰者になれているのだろうか・・・。
 
「組織から離れない」
 
とにかく、これさえ心に誓って戦い続ければきっと大丈夫だろう。いや、絶対に大丈夫だ。
もっともっと成長したい!! いや、する!!!
 

久しぶりに。

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最近思う事。
会合に出るといつも決まり文句のように

「お元気な池田先生のもと」というセリフが出る。

しかし聖教新聞に時々出る先生の近影写真を見る限りとても「お元気」とは思えないお姿。

学会執行部はいつまで「お元気な池田先生」をカモフラージュしていくつもりなのか?

元本部職員3名のブログ

とか、宿坊の掲示板

等によって、今や池田先生の著作やメッセージはそのほとんどがとある人材グループによるゴーストライターである事が分かってきた。

こういう事を続けていると、いざ先生が亡くなられた時に会員にはどのように伝えるのか?それとも当面隠してしまうのか?

もうかなり前から先生はバトンを渡されているはずだが、今なお組織上げて師匠の言葉や指導を読み直したり勉強していくような人材育成に力を入れる気配がない。

もはや執行部がどうとか考えないで良いかもしれない。自分がどうするか、これから真剣に考えていくしかないのかもしれない。

聖教新聞について思った事

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聖教新聞は励ましの新聞である。
 
大半の紙面を励ましで埋め尽くしている日刊紙は、恐らく世界中探しても聖教新聞以外にはないだろうと思う。
 
最近では時々、学会員じゃない芸能人が登場し、若者を励ますためだけの記事が出る事もある。
 
毎日掲載される体験談では、住んでいる地域と実名と顔写真まで公表した上、その人が「いかなる苦難にも負けなかった人生ドラマ」をありのままに綴っている。
 
体験談を含め、「人間が本来持っている力を知ってもらうため」にも、学会員以外の多くの人たちにも読んでもらいたい記事がたくさんある。
 
広宣流布と言っても、本当の目的は世界恒久平和の実現を目指す事なのだから、聖教新聞を外部の人に読ませる理由は、学会をPRするためという単純な理由ではない。
 
もちろん、学会理解の輪を広げる事は非常に大切な事だが、それ以外に、「幸福に対する意識改革」という大事な役割が聖教新聞にはあると思っている。
 
要は、「心こそ大切」というキーワードをいかに多くの人達に浸透させられるかではないかと思う。
 
「心が豊かであれば、それだけで幸せになれる」という記事を過去に書いた事があるが、まさにそのための新聞が聖教新聞なのだと思う。

 
このような聖教新聞だが、かつては信じられないほど汚い言葉が頻繁に踊っていた時期があった。
日蓮正宗から破門された後の寸鉄や座談会だ。
 
学会員の中には、あの頃の紙面は恥ずかしいと感じている人は今でもいると思う。
 
現実に今でも、あの頃の寸鉄や座談会に書いてあった言葉をアンチにはネタとして使用される事がある。
 
正直、私もやりすぎではないかと思っていた時期があった。

だけど、今は考え方を変えた。
何故なら、あの頃の寸鉄や座談会を読んで、「やりすぎでは?」と感じた私は、宗門への赤誠を貫いた経験を全く持っていなかったからだ。

そんな私が、宗門に尽くし抜いた上、極悪非道な裏切りを受けた人々の気持ちなど、分かるはずがないと気付いたからだ。

池田先生がどれほどの思いで宗門を守り抜いてきたか、また、師匠と同じ思いで宗門へのご供養を続けてきた方々や、正本堂への供養に全財産を投げ打った方々などが、どれほど悔しい思いをしたのかを考えると、想像を絶するものがある。
 
そういった方々の心を救済する意味もあったのではないか?と、今なら思える。
 
薄汚い宗門から完全に決別するため、また、宗門へのご供養を続けてきた方々の執着心の呪縛を解くために、外部や第三者から誤解を受ける事も覚悟の上で、あえてあのような表現を使わざるを得なかったのではないか?と、今ならそう思えるようになった。

 
 
聖教新聞は、今も昔も、ずっと、励ましのための新聞なのだ。
 
 
 
事実、この新聞に人生を救われた人々は、世界中で無数に存在している。
 
 

 

煩悩と自然現象

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自然現象とか煩悩とかは、人間が生きて行く上では絶対に必要なものでありながら、多すぎたり強すぎたりすると困るものでもある。
 
世の中って不思議だ。
 
太陽は、照りすぎると旱魃や熱射病を招くし、
風は、強すぎると建物を崩壊するほどの威力を発するし、
水は、多すぎると洪水や不作などの水害をもたらす。
 
地球上の生命に絶対不可欠なものであっても、度を過ぎると生命を脅かす存在にもなる。
 
すべての自然現象は、生命尊厳の慈悲であり、互いに調和を保ちながら存在していると、過去に学んだ事がある。
 
この調和が崩れた現象が自然災害を生み出している。
 
煩悩もそう。
 
小乗経では、すべての煩悩を絶つことが成仏だと説くが、それを一切衆生にさせる事は、そのまま人類の滅亡を意味してしまうわけだから、煩悩は邪魔に見えて必要なものでもある。

煩悩は人間が生きていく上で絶対に必要なものだと言っても、「ほどほど」に留めておかなければ不幸の元になる。
 
食べ過ぎると健康を害し、
寝すぎると体調を悪くし、
物欲が過ぎると常に満たされない心が苦しみを生み、
性欲が過ぎるとおかしな性犯罪の元になったりする。
 
煩悩は、調和が乱れると三悪道を生み出し、不幸への道となる。

そう考えると、世の中のすべては、「ほどほど」にしておく事が良いということなのだろうか?
 
いや、そうじゃないものもある。
 
出せば出すほど、強ければ強いほど良い結果をもたらすものもある。

自分を高めるための飽くなき向上心
真実の人生を常に探求し続ける求道心
利他の心から生じる激励
心ゆくまで唱題
新しい事に挑戦する勇気

おおっ! よく考えたら、上記はすべて学会活動に含まれているじゃないか!
 
何だか凄いなあ、学会員でいるってのは。
 
と、ちょっと歓喜しました(笑)。
 
ここで思い出したのが、「池田名誉会長が語る師匠・戸田城聖先生」という本の254ページに書いてあったこの一節。
 
『▼信心は命をかけても悔いがない。
 
わたしは、「何故、不惜身命で信心をしなければならないのでしょう」と質問した。戸田先生は、こうおっしゃった。「この地球上で、軍人は人を殺しあう。経済は弱肉強食の世界で、人を幸福にするとは限らない。医者や弁護士、役人は本来は人を救う立場だが、反対に人を見下し、利用している輩も多い。その他、政治、科学、教育、宗教――とにかく人間の業というか、社会は複雑で、すべてが矛盾だらけである。どこにも万人の幸福への根本的な道はない。そのなかで、日蓮大聖人の仏法だけは、人間の根本的な宿命転換の方途を示されている。常楽我浄と、永遠の所願満足への軌道を教えてくださっている。これ以上の究極の人生の道はない。だから信心だけは命をかけてやって悔いがないのだ」と。私は納得した。納得したゆえに、身を惜しまず私は進んだ。それが青年である」――第一回アメリカ青年研修会 一九九一・一〇・一―― 』

確かに、いまだかつて
「唱題しすぎて体調を崩した」とか「友を激励しすぎて人間不信になった」とか「教学を学びすぎて鬱になった」とかいった経験はただの一度もないし、聞いた事もない(笑)。
 
 
私は今日も、自分の心を「師弟」という安全地帯に置いて、前に進み続けようと決意した。
 
 

組織から離れるな!

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【我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし】
開目抄 5月度座談会御書
 
「学会から離れるな!」
「組織から離れるな!」
「御本尊から離れるな!」
 
池田先生は、本当によくこの指導を繰り返される。

地元で発心して10年が過ぎ、青蝿が駿馬の尾にしがみつくが如く、学会組織につき続けてきた今、何故先生がこの指導を繰り返されているのかを、少し真剣に考えてみることにした。
 
脱会者とか反逆者とか、活動から長らく遠ざかっている人など、様々な人を見てきて、また、自分自身が何年も活動から遠ざかっていた経験を振り返ってみて、ようやくこの指導の深さの一端が理解できたような気がする。

組織に着いて信心を続けていると、時には組織のあり方に不満を感じたり、幹部の気配りのなさに辟易としたり、常に多くのジレンマと隣り合わせとなる。
 
そんな時、自分の一念が常に「一人立つ精神」であれば、組織への不満は「自分が組織を変える」という誓願になり、幹部への不満は、「自分が弟子の手本を示す」という誓願になる。
 
多くの退転者、多くの内部アンチ、多くの活動休眠者を見ていると、面白いように共通している生命の傾向性があった。
 
「いざという時には他人のせいにする」
「不満は言うが、自分が弟子の手本は見せない」
 
という、外道根性である。
 
こうなると、もはや仏法者ですらない。
 
学会活動をしない理由を外に向けている時点で、それは仏法とはいえない。

不信や不満や疑念は組織で活動している限り、必ずついてまわる。だけど、不満を起こしてはいけないとも、疑念を持ってはいけないとも大聖人は言っていないし、学会指導にもそんなものはない。

大事なのは、そうなった時にどう自分と向きあうかなのだ。
 
「あいつが悪い」
「あの幹部が悪い」
「だから俺は活動しない」
 
実に惨めだ。最後に不幸になる人間の典型だ。
 
ところが
 
「組織から離れない」
 
この一点を絶対に忘れないでいると、幹部への不満、組織への不満が生まれ、活動意欲がなくなってしまった時に
 
「原点に戻って祈る」
 
という選択肢しかないという事に気付かせてもらえる。
 
そして不満の心を全力で御本尊にぶつけ、真剣に祈っていくと、知らず知らずのうちに生命が浄化され、境涯が上がる。
 
苦しくて苦しくてたまらない時に、「もうこれしかない」という本気の一念で唱題を続けると、知恵がわく。また、そんな時に読んだ先生の指導は、必ず自分の生命の奥深くに突き刺さる。自分が求めていた答えを必ず見つけることができる。
 
「組織から離れない」
 
という事は、どんなに苦しくても、辛くても、最後に頼れるのはご本尊様であり、御書であり、学会指導なのだと嫌でも気付く回数が増えるという事なのだ。
 
そして、ご本尊に題目をあげると、必ずすべてを乗り越えられ、悩みや苦しみの正体は、御書や学会指導に必ず答えがある事に気付けるのだ。
 
私はそれを繰り返したおかげで、ありがたくも生命を磨かせてもらった。
 
10年前と今では、まるっきり考え方が変わり、想像を絶するほど成長している自分に気付かせてもらった。
 
更に10年先、また学会創立100周年の2030年、はたして自分は、どれだけ腹の据わった信仰者になれているのだろうか・・・。
 
「組織から離れない」
 
とにかく、これさえ心に誓って戦い続ければきっと大丈夫だろう。いや、絶対に大丈夫だ。
もっともっと成長したい!! いや、する!!!
 

無限の可能性について考え直す

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ガンジーは言った。
『歴史上、いまだ起こったことがないから不可能だというのは、人間の尊厳に対する不信の表れである』

祈りながら、かなり無意識だが「自分はここまでならできるが、これ以上は無理」と決めている事が多い。
無限の可能性を心のどこかで疑っている。

この考え自体が謗法かもしれない。

無限だと言いながら、自分の限界を勝手に決めているのだから。

人間的にも世法的にも、まだまだ成長できる。

もちろん仏法は道理であるから、ここから想像以上に成功・成長しようと思ったら、想像以上の苦労も同時についてまわる事になる。

要は、そこまでの苦労をも悠々と乗り越えている自分を信じられるかどうかなのだと思う。
 
まずは、祈り方を変える所から始めてみよう。
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