自分が生活する環境で、色々な問題が起こる。
特に人間関係で悩む。
こんな時に学会員は、相手に原因を求めず、自分の宿業として捉え、祈る。
一生懸命に相手の良い所を探し、相手を好きになるように自分の一念の変革をはかるように努力する。
そうすると、いつしか相手からも好かれ、次第に信頼関係を築けるようになってくる。何より、自分自身が一皮剥けた人間革命を成し遂げる布石ともなる。
仏法は道理なので、このプロセスに何一つ無理はないし、不可思議な話でもない。
「すべてを信心で捉える」という事を教え込まれている学会員は、すべての行き詰まりを祈りと知恵と誠実な行動で乗り越えてゆく。
ところが、これと似た問題が組織内で起こった場合、上記のような信心の基本をあてはめずに考えてしまう風潮があるように感じている。
私自身の反省を込めて、組織にいて気付いた事を記事にさせてもらう。
同志間というのは、とにかく怨嫉が起きやすい。特に婦人部は、うんざりするほどひどい。
どういうわけか、相手が信心をしていない外部の人間であれば、人間関係の不和が起こった時に自分の宿業として捉えられるのだが、相手が同志であった場合、特に自分よりも上位役職の人間との間に起こったトラブルは、自分の宿業とは捉えにくく、相手のせいだと思いこんでしまうようなのだ。
特に人間関係で悩む。
こんな時に学会員は、相手に原因を求めず、自分の宿業として捉え、祈る。
一生懸命に相手の良い所を探し、相手を好きになるように自分の一念の変革をはかるように努力する。
そうすると、いつしか相手からも好かれ、次第に信頼関係を築けるようになってくる。何より、自分自身が一皮剥けた人間革命を成し遂げる布石ともなる。
仏法は道理なので、このプロセスに何一つ無理はないし、不可思議な話でもない。
「すべてを信心で捉える」という事を教え込まれている学会員は、すべての行き詰まりを祈りと知恵と誠実な行動で乗り越えてゆく。
ところが、これと似た問題が組織内で起こった場合、上記のような信心の基本をあてはめずに考えてしまう風潮があるように感じている。
私自身の反省を込めて、組織にいて気付いた事を記事にさせてもらう。
同志間というのは、とにかく怨嫉が起きやすい。特に婦人部は、うんざりするほどひどい。
どういうわけか、相手が信心をしていない外部の人間であれば、人間関係の不和が起こった時に自分の宿業として捉えられるのだが、相手が同志であった場合、特に自分よりも上位役職の人間との間に起こったトラブルは、自分の宿業とは捉えにくく、相手のせいだと思いこんでしまうようなのだ。
不思議な事かもしれないが
「仏法では他人のせいという考え方は一切ない」
という学会指導に賛同はしていながらも、自分よりも上位役職の人間に対して不信感を感じた時は、悪いのは自分ではなく、相手ということで片付けてしまうのだ。
「自分よりも役職が上なんだから、こんな事には気付いて当然」
「先生の指導を読んでいれば、これはできて当然」
と、心の中で考えてしまうのだ。
「自分よりも役職が上なんだから、こんな事には気付いて当然」
「先生の指導を読んでいれば、これはできて当然」
と、心の中で考えてしまうのだ。
「役職と信心は全く関係ない」と、池田先生が繰り返し指導されているのにも関わらず、(私自身も含めて)自分よりも役職が高い人は、自分よりも境涯が高くないと何だか納得できない気持ちになってしまうのだ。
その場合、自分の宿業とは捉えていないのだから、相手の事をそれほど真剣に祈る事はない。
仮に、自分がその組織の長になった時、既に会員同士の不協和音が根強く存在していた場合、これは絶対に自分のせいではなく、これを放置してきた先輩幹部の責任じゃないか。と、思い込んでしまう。
非常に恥ずかしい話ではあるが、私自身の一念にそういう考え方が確かにあった。
私自身が地区員さんから嫌われていたりしたわけではないので、当然私の問題ではないと思っていた。
が、
「それでいいのか?なんか違うだろ」
と、最近気付いた。
組織の中の人間関係に問題を感じた時、それは
「問題を感じた人の問題」
と、捉えてほぼ間違いないのではないかと思う。
何故なら、問題を感じた人が唯一、団結の組織を作るための具体的な祈りができ、具体的な知恵を出し、手を打てる人になるからだ。
我が地区の婦人部は、確かに自己中な人が多く、とにかく皆、我が強い。
誰かが、誰かを嫌ったり煙たがったりしている。
個々が我を張ってしまう組織の背景にあるものは、団結をかき乱す魔の存在に違いない。
この魔を鋭く見抜き、追い出していく以外に組織を変える手立てはないのだろうと思う。
その場合、自分の宿業とは捉えていないのだから、相手の事をそれほど真剣に祈る事はない。
仮に、自分がその組織の長になった時、既に会員同士の不協和音が根強く存在していた場合、これは絶対に自分のせいではなく、これを放置してきた先輩幹部の責任じゃないか。と、思い込んでしまう。
非常に恥ずかしい話ではあるが、私自身の一念にそういう考え方が確かにあった。
私自身が地区員さんから嫌われていたりしたわけではないので、当然私の問題ではないと思っていた。
が、
「それでいいのか?なんか違うだろ」
と、最近気付いた。
組織の中の人間関係に問題を感じた時、それは
「問題を感じた人の問題」
と、捉えてほぼ間違いないのではないかと思う。
何故なら、問題を感じた人が唯一、団結の組織を作るための具体的な祈りができ、具体的な知恵を出し、手を打てる人になるからだ。
我が地区の婦人部は、確かに自己中な人が多く、とにかく皆、我が強い。
誰かが、誰かを嫌ったり煙たがったりしている。
個々が我を張ってしまう組織の背景にあるものは、団結をかき乱す魔の存在に違いない。
この魔を鋭く見抜き、追い出していく以外に組織を変える手立てはないのだろうと思う。
広宣流布の途上で、悪を完全消滅させる事は不可能だが、その組織で悪が蔓延れなくなるほど善の連帯を築く事は決して不可能ではないはずだ。
我が地区ではまず、地区婦人部長が、地区の婦人部員数人に対して、どうにも慈悲の心を持てない状態が続いてしまっている。要するに嫌っている。
嫌われている地区の婦人部員は、確かに多かれ少なかれ素行に問題はある。私も正直、苦手だ。
だが、我が地区の大先輩、多宝会の副本部長ですら、素行に問題のある婦人部員に対しては、陰口を叩くのみで、具体的にどう手を打てば良いのかについて知恵を出した事はない。
そして今、私自身が決意している婦人部を要とした地区の団結を図っていく方法とは
どんなに問題のある部員さんであっても、慈悲を最大限に出して祈っていく、という当たり前の風潮を根付かせていく戦いだ。
人というのは基本的に、自分の良いところを全部分かってくれている人から何らかの諫言をされた場合、素直に聞き入れるものだと思う。
地区婦人部長にしても、副本部長にしても、確かに言っている事は間違ってはいない。ただ、一念が間違っているだけなのだ。
部員さんの素行について問題提起しているようで、実は自分自身が自高蔑人の魔に犯されていることに気付いていないのだ。
まずは、「良いとこ探し」を提案しようと思っている。
「自分の良いところをきちんと理解してくれている」
それを浸透させる事で、素行に問題のある婦人部員は必ず改心してくれると信じきっていこう。
逆に、そういう人が傍にいるのに、小我から抜け出せずに自己中なままでいる人は、心に必ず大きな一凶を抱えているに違いない。
「良いところをきちんと理解している」幹部であれば、相手の一凶に対しては鋭く切り込んでも全く問題はない。
何故ならそれは、100%慈悲の一念から発した行動になるからだ。
それでも変わらなかったり、怨嫉して組織から離れるような人間であれば、自分から落ちて行くだろう。組織にも全く迷惑をかけなくなる。その上、新たな人材が育つか、組織が新しく活性化される事は間違いないと信じる。
要するに私は、まず自分自身の胸中に、そして、地区の主要活動家全員の胸中に、人間革命12巻の以下のくだりを深く根付かせたいと願っているのだ。
後継の章
「伸一、仏法者というのは、騙されても、騙されても、最後まで相手を信じ、つつみながら、再起と更生を願って、手をつくしていく以外にないのだよ」
長期間の粘りが必要な戦いとなるだろうが、「やるしかない」と思っている。
まず、自分が変わろう。
そして、じっくりと祈り、準備しよう。