学会員さんが好んで使う言葉の中に、意図しない出来事が起こったり、思わぬ災難に見舞われた時に使う「これって意味あるよ!」というものがあるが、これの使い方について、どうしても気になるようになってきたので、記事にします。
そもそも、世の中のすべての出来事には「意味がある」のであって、その意味を自分の力で最善のものに変えていくのが信仰の力なのだ。
何となく、勘違いして使っている人がいるような気がしたのは、自分の目の前に起こった事のすべてが、御本尊様の御計らいによる最善の出来事なのだと思っている人が意外と多いような気がしたからだ。
実はそうではなく、どんな事が起こってもそれを最善に変える力が人間には備わっているという事を知らなければいけないのだと思う。
確かに、仏法では法華経の行者を守護すると誓った諸天善神が無数に存在している。
そして学会員は、それが諸天善神のおかげだと気付いている事も、気付いてない事も含めると、数限りない諸天の恩恵を受けているのも事実だ。
だからと言って、信心を頑張っている人は、絶対に病気や事故では死なないという事ではない。
時々、聖教新聞や大白蓮華で、信心を頑張っていたはずの子供が突然亡くなり、絶望に打ちひしがれた母親が負けずに立ち上がり、見事な実証を示したという体験談が載る事がある。
私は、こういう体験談が本当に好きで、それを積極的に掲載する聖教新聞社の姿勢も大好きだ。
「守られた」とか「生活が好転した」という体験ももちろん大事だが、その根底にあるものは、「苦難に(自分が)負けなかった」「絶望の淵から(自分で)立ち上がった」という究極の人生ドラマの体験を聖教は伝えようとしているのだ。要するに一番大事なところが、「人間はどんな劣悪な環境にいても、心だけは絶対に勝てる」という部分なのだ。
そう考えると信心の究極は開目抄で大聖人が宣言された――
「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(232P)という一文だ。
大聖人自ら
「諸天善神なんかいらね~!それでも俺はどんな難があっても負けずに正法を弘めるよ!」と宣言されているわけだから、これほど究極完全体の生命はないだろうと思う。
「諸天善神なんかいらね~!それでも俺はどんな難があっても負けずに正法を弘めるよ!」と宣言されているわけだから、これほど究極完全体の生命はないだろうと思う。
とはいえ、三世の生命観で見れば、必ず守られてしまうのが、仏法を実践する人のお約束なのだが、守られる事を期待しない人生の方がはるかに強く、楽しいものだともう一度確認しておきたいと思った。
目の前に起こったことの意味を「座して気付くのを待つ」のか、「積極的に意味を作っていく」のか、この両者の違いは、途方もなく大きい。